未来共創新聞1面コラム

第17号(2014年3月31日)

2014年07月17日

韓国が実効支配している竹島(独島)は、日本と韓国のいずれにも、自国の帰属を明確にする文献がないという。「領土問題」とは国境線の正当性を主張しあう諍いであって、正答が用意されているわけではない。地理的に見ても韓半島と日本列島の真ん中辺りにあるのだから、両国が相談して賢く共有すればいいと思う。

▽そもそも「領土」といい「排他的経済水域」といい、いずれも海洋と海底鉱脈を「資源」と見なすようになった近代以降の発想である。その根底には、人間のために採(獲)れるものは何でも取り尽くすという修羅の強欲がある。その強欲こそが「殺戮の世紀」と呼ばれた二十世紀人類の悲劇の原因であった。

▽先般、嶺南大学の崔在穆哲学科教授(独島問題研究所所長)とお話をする機会があった。崔教授は、独島が韓国固有の領土であるとは言われなかった。「独島が韓国と日本の平和と共生の島になればいい」と。日本と韓国が近くて近い国になることこそが東アジアの平和と共存共栄への第一歩となることを洞察した、碩学の勇気ある発言である。日本海(東海)を韓国、北朝鮮、日本の核兵器なき友好の海に――。その目標を、先ず「日韓」で共有できればと思う。

第16号(2013年12月31日)

2014年07月17日

伊東俊太郎氏は新装版『比較文明』(東京大学出版会)において、「『ルネサンス』はあくまで西欧の出来事であるといってよい面があるが、『科学革命』は全世界史的な意味をもつ」と指摘している。二一世紀の人類が考えるべき重要な視座である。

▽ルネサンスは西欧における「人間」の復権であり、それまでの神との隷属的契約関係から独立した「自我」の存在宣言であった。しかし自我が地球環境問題や経済グローバリズムの暴走等で自信がゆらぎ、ニーチェが予言したニヒリズムがのっぴきならない哲学的難問となってきた。

▽アジアにおいて、西洋のルネサンスに相当する人間復興はあったのだろうか。結論から言うと、アジアには西洋の「契約」に代わって「道」や「徳」という倫理が説かれてきたが、その根拠を提供してきたのは西欧の「神」ならぬ「支配者」であった。西欧において「神は死んだ」が、アジアの支配者は今も君臨し続けている。本紙が追究している論語の新解釈は、その意味でアジアのルネサンスの走りとなるかもしれない。

▽科学革命は従来、ルネサンスや宗教改革と同列に西欧で論じられてきたが、実は産業革命の「力」を伴って世界を覆っている。今後、その「科学」が問われる。

第15号(2013年11月30日)

2014年07月17日

ある国際ビジネスマンが「韓国は楽しい地獄だけど日本は淋しい天国だ。私は楽しい地獄の方がいい」と言ったという。浄土真宗の開祖の親鸞に、弟子の唯円が「浄土に行きたいという勇躍歓喜の心が湧かない」と尋ねると、親鸞は「実は私も同じ不審がある。浄土が恋しいとは思わない。そういう煩悩具足の凡夫だからこそいよいよ往生浄土は確かだ」と答えた(『歎異抄』。)江戸時代、宗門は歎異抄を禁書とした。

▽冒頭の話は喜怒哀楽のある娑婆世界こそが面白いという人間の率直な思いが滲み出ている。韓国で「相生」という言葉を耳にした。医学その他の用語としても使われている。日本は「共生」で韓国は「相生」だろうか。同じ屋根の下で暮らしていてもお互い干渉せず、食事もそれぞれ勝手に食べる共生に対して、韓国人は相手のことが気になって仕方がない。良くいえば暖かい。わるく言えば構い過ぎ。

▽共生は忍耐強く静かだが不安で躍動感がない。相生には、うるさくても相手の心と生活の中に入り込んで交わって一緒に、という熱がある。

▽東京オリンピックが決まった。原発のゴミは福島に。日本という一つの国の中で明暗がハッキリ分かれているのは共生だろうけれど、やはり淋しい。

第14号(2013年10月31日)

2014年02月05日

阿部次郎著『三太郎の日記』の「砕かれざる心」の書き出しは次の言葉から始まる。「彼はこの数ヶ月の間、殆ど他人を愚かだと思ふ心と、自らを正しいと思ふ心との中に生きてきた」。

三太郎は、日記の中で、批評家の指摘を見当違いだと断じ、「畏縮」ではなくかえって「膨張」していく自身に「傲慢」を視て、行き詰まっていた

▽自分の本当の価値を認めてくれない周囲にいらだつ三太郎は、厳しい指摘を受ければ受けるほど自らの傲慢が膨張していくことに忸怩たるものを感じてきた。ここまでが昨日までの三太郎である

▽今日、三太郎の前には二つの道が見える。一つの道は、他人の自身に対する批評の当否はともかく、自分の自我を凝視し、自らが過去から積んできた罪の深さに懼れおののき、真実砕かれたる心で、万人への愛に献身する永続的な道である

▽しかし人は往々にしてもう一つの道を選ぶ。もう一人の三太郎は、自分の過去の善行の数々を数え上げ、自分を認めない者を「愚か」だと誹謗し、逆に自分を特別に選ばれた人であると自己規定して、自己膨張を増幅させる

▽民族で言えば「選民思想」、国家で言えば「国粋主義」、人間で言えば「驕る者」。三太郎は今、岐路に立っている。

第13号(2013年9月30日)

2014年02月05日

安冨歩氏は、『世界』7月号の「先祖になれ!」で偽弁別の消息に触れている。

「反原発の原子力専門家として有名な小出裕章氏が『子どもたちや子孫のために脱原発、というのは何か違う気がする』と言っておられたのですが、まさにそうだと思います。(中略)こういう言葉は結局のところ空虚な欺瞞になってしまうのです」と

▽小出氏の逆説には真偽を見分ける鋭い嗅覚が働いている。地球環境の悪化がこのまま進めば人類に未来がないことは誰にも明らかである。だから、現代の危機を突破する新しい価値観が求められている。しかし、そもそも環境破壊の原動力となってきた思想とは何か?

▽目の前の利益を追うことで幸福が約束されると錯覚するマネー信仰(迷信)が先進国、なかんずく日本とアメリカの思想(と呼べるとして)なのである。「反原発」という人々の祈りをすら、秘かに事業に変え、その看板に「子どもたちや子孫」を掲げて拡大再生産を臆面もなく語る偽善は、自他共に欺く痼疾(こしつ)と言わなければならない

▽小出氏のような本物の仁者と偽物(ぎぶつ)を見分ける方法はあるだろうか。偽物(にせもの)は本物を本心では嫌う。光が出れば、闇をゼロにするからだ。偽物は本物を扱いきれなくなると地金(じがね)を出す。


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