未来共創新聞1面コラム

第2号(2012年5月15日)

2014年02月05日

「自分自身のことでも/自分の世代のことでもなく/来るべき世代の、私たちの孫や/まだ生まれてもいない/大地からやってくる新しい生命に思いを馳せる」。

アメリカ先住民インディアンの古老の言葉であるが、彼等の「文化」と、21世紀の「先進国」の「文明」と、どちらが深くて幸福に近いだろうか

▽地球環境の永続的発展をテーマに世界の「賢人」たちが集まった1992年の第一回地球サミット。当時12歳の少女だったセヴァン・スズキちゃんは、伝説のスピーチで「自分の未来を失うことは、選挙で負けたり、株で損したりするのとはわけがちがう」「あなたがた(大人)はいつも私たちを愛しているといいます。しかし、私はいわせてもらいたい。もしそのことばが本当なら、どうか、本当だということを行動でしめしてください」と叫んだ

▽あれから20年。「行動」の成果が何かあっただろうか? 地球環境問題は、新聞・テレビ・雑誌が時折、熱病のように取り上げるが、潮が引くように消えてゆく。「行動」が持続しないのはなぜか

▽それは、我々の命の底にある「良心」と「良心」を結んで行動する「ネットワーク」が必要だという〈価値観〉がいまだ確率していないからだ。その軸心となる哲学を共に創ろうではないか。

創刊号(2012年4月1日)

2014年02月05日

「和国の教主」と呼ばれた聖徳太子は三つの義疏(仏典の注釈書)を著した。

『維摩経義疏』は、在家仏教信者の維摩詰を主人公とする物語を注釈している。維摩居士に「衆生病むが故に吾病む」という有名な言葉がある。人間の生老病死の悩みを「病い」と捉え、人間世界から悩みが消えない間は私もまた病む、という。

維摩の病は「大悲」によって起こる。亀井勝一郎は、「(そこに)教靭無比の精神を見出すべきであらう」(『私の宗教観』)と指摘している

▽翻って、今の日本は健康なのか、病気なのか。東日本大震災がもたらした福島第一原発事故は、放射性物質の内部被曝の不安を我々に与え続けている。地震列島の”時限爆弾”が、いつまた爆発するかもしれないという恐怖もある。

我々はこの現実を「衆生の病」(不安)として受け止めるしかないのだろうか

▽西の聖者キリストは、人類の原罪を一身に背負って十字架に架かった。これを「贖罪」という。原水爆と原発のもたらす悲劇を体験した日本人は、絢爛たる科学文明がもたらした災禍を”文明の質の転換”への契機(贖罪)として受けとめ直し、「強靱無比の精神」の連帯で世界に発信する使命がある。

人間の叡智は、悲劇をすら”希望の曙光”に変えるだろう。

創刊準備号(2012年1月1日)

2012年01月23日

百二十歳で示寂したと伝わる中国唐末の禅僧・趙州(じょうしゅう)は、「私は死んだら真っ逆さまに地獄に行く」と語った。(鈴木大拙「禅の世界」)。ある人から「あなたは死んでからどこへ行きますか?」と質問されて、そう答えたという。
「あなたのような高徳の聖がどうして地獄にお出でになるのですか」。
趙州が答える「私が地獄へ行かなんだら、お前のようなものをどうして救うか」

この逸話を紹介した鈴木大拙は、「世間では、道徳で宗教が片づくと思って居る人もあるやうだが、是は短見者流の僻見で、本当ではない」と指摘している

飢えた虎の親子を救うために、自らの身を虎の前に投げ出したという釈尊の前世譚が法隆寺の玉虫厨子に描かれているが、慈悲心から自らの命を投げ出す行為は、何も聖人だけのものではない。それを為しうるのは「母」である。世の母の大悲は大地より厚い

仏教では、草むらに鳴く虫も、世世生生の父母兄弟であると説く。だから、一切の衆生は我が同胞だと受け止める。世の全ての男が過去世の父であり、全ての女が過去世の母であると思えば、「一切衆生の恩」に報いることこそが人の道であると気づく。
趙州はこの衆生の恩に報いるために、敢えて地獄で苦しむ人々との同苦を選んだ。その発願に救いがある。


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