未来共創新聞1面コラム

第22号(2015年1月31日)

2015年02月28日

1960年代の日本で学園紛争が流行した。社会変革に役にも立たない知識を象牙の塔の中で切り売りしている大学教授がやの玉に挙がり、唯物論のマルクス主義革命に血道を上げる学生が大学をバリケードで封鎖した。

ある熟年男性が彼らに対峙し、「君たちと僕とはほとんど一緒だけど全く違う」と一喝した。大学には「学問を学ぶ場」としての目的拘束がある。そこへ学費を払って入学したのに、ほかの学生の「学問する」権利を力ずくで奪う非理と自己矛盾を突いたのだ。

二宮金次郎の思想と行動の肝は道徳と経済の両全にあると指摘されている。経済の語源は「経世済民」すなわち「世を経(おさ)め、民を済(すく)う」こと。幼年時に全財産を失い、十代で両親を亡くして兄弟とも離れて辛酸を嘗めた金次郎は、一切の困難を己が魂を磨く砥石とし、真金となって世に輝いた。彼は米相場で儲けたお金も給金も寄付金も、譲道をもって助けあえる世の中づくりのために推譲した。金次郎が視線を注いだのは、最も貧しく弱い人々であった。道徳と経世済民の両全である。

一方、最近経済界で人口に膾炙されている「自利利他」は、不純な邪心も許容していないか。真金とほとんど一緒だけれど全く違う。

第21号(2014年10月31日)

2014年12月01日

前号で安藤昌益を取りあげたところ、「こんな素晴らしい人物が日本にいたのか」と驚きの感想が何人もの方から寄せられた。崔済愚と崔時亨の二人は今回特集した東学を樹立した韓国の偉人であるが、今はほとんどの日本人が知らない。私たちは今後、二宮尊徳、新井奥邃、田中正造ら日本の思想家にも焦点を当て現代に蘇らせたいと思っている。

ところで本コラムの表題「conscience」は「良心」と翻訳された。ちなみにconscienceの原意は「共に知る」である。私たちはconすなわち「共に」に二十一世紀の重要なキーワードを読み取りたいのであるが、どうだろう。音楽やドラマといった芸能分野では東アジアの民衆が共に楽しみ通じあう交流が進行しているけれど、思想哲学方面で東アジアで共感共振できるメディアはあるだろうか? 未来共創新聞が目指しているのはこちらの方である。

普通、日本で「良心」といえば、一人ひとりの内面に働く良き心というような意味に使われているが、原意に照らせば、良心とは人と人との間、人と自然の間、人と神(天)の間に立ち上がる命の共振共鳴共和作用なのであって、個人の内面に有るというものではない。ともに「良心革命」を起こしませんか。

第20号(2014年9月30日)

2014年10月31日

飲酒党のあなたは日本酒は好きですか?若山牧水に日本酒のうまさをしみじみと歌った歌がある。「白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒は静かに飲むべかりけれ」。それにしてもおいしい日本酒が少なくなった。酒造環境研究会編の『挑戦する酒蔵―本物の日本酒を求めて―』は、真に日本酒を愛する人必読の書としてお薦めしたい。

日本酒の原料は米である。この米について、安藤昌益は「穀物の精が人になっている」と言うほど穀物のもつ活真の精髄に惚れ込んだ。そして、自分は死んだら穀物になってしばらく休んでまた人間になって、いつか必ず活真の世にしてみせると言った。

東アジアの人々はおもに米を主食としている。麦も含め穀類はアジアの食のエネルギーの源なのだ。その米がTPP貿易交渉で「非関税障壁」の一つとしてやり玉にあがる。日系アメリカ人の大貫恵美子ウィスコンシン大学教授は『コメの人類学―日本人の自己認識―』を著して、米は“日本人の魂”だと指摘した。お隣り韓国でも、米作文化の危機を深刻に受け止めている。

エスキモーのようにアザラシやクジラを主食にしている民族もある。食は地産地消が健康にかなう。マメ、トウモロコシ、イモ等々。主食を大事にしたい。

第19号(2014年7月30日)

2014年08月19日

新しい時代、新しい社会を構築するためには新しいエネルギーが必要である。産業社会の発展に不可欠な動力エネルギー資源として、石炭・石油などの化石燃料がある。化石燃料は科学革命の原動力となった。しかし、地球環境が危ぶまれるなか、自然エネルギーのみを活力資源とする文明のあり方に人々は限界を感じ始めている。

もう一つの活力資源が我々には必要なようだ。それは活命エネルギーの源泉としての古典ではないだろうか。書店に行けばノウハウものや興味を引く書籍であふれているが、古典のコーナーは小さな本屋だと見当たらない。古典は文字通り古いだけで、かえりみる価値もないのだろうか。そうではあるまい。

古典とは、長い時代の風雪にも政治や文明や価値観の変転にも堪えて人類の魂の糧として古くから生き残ってきた宝の書籍という意味である。

昨今の日本では『論語』の読み直しが盛んに行われており、「仁」の解釈についても刮目すべき指摘がなされている。古典はあまりにも深い。だから二千五百年の歳月を経てその真価がようやく発見されるということも起こる。その瞬間から歴史が、文明が変わりうるほど、活力資源としての古典のエネルギーは巨大である。古典に挑戦しようではないか。

第18号(2014年5月31日)

2014年07月17日

私は薄運なのか、神明の加護がないのか、することはうまくいかず…」と歎く人に対して、二宮金次郎は言った。「おまえはまちがっているのだ。運がよくないわけでもなく(中略)、瓜をうえて那須が欲しいと思い、麦を蒔いて米を望んでいるのだ。願うことができないのではなく、できないことを願っているからだ」

▽金次郎の七代目の子孫、中桐万里子さんは「何か特定の目的をもち、それを得ようと欲して行為をすると、どうしても謀計や細工が入るため、ことはうまくゆかない」と読み解く(『二宮金次郎の幸福論』)

▽「目的」しか眼中になくなると、人の気持ちも現実も見えなくなり、道を外れた小手先に走るだろう。一時的に成功しても、いつか綻びがくる。「いまなすべきことを一途にがんばるなら、『自然と結果が出る』というのが彼の見解でした」(同)

▽金次郎は亡くなる前に「余が書簡を見よ、余が日記を見よ、戦々兢々として深淵に臨むが如く、薄氷を踏むが如し」と語った。生涯に六百もの村を再建した二宮金次郎には祈りはあっても野望はなかった。明日の結果は見えないが、悪戦苦闘しながら村人と共に良心に忠実に生ききった。そして、東アジアの同志と共に――。


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