第18号(2014年5月31日)

私は薄運なのか、神明の加護がないのか、することはうまくいかず…」と歎く人に対して、二宮金次郎は言った。「おまえはまちがっているのだ。運がよくないわけでもなく(中略)、瓜をうえて那須が欲しいと思い、麦を蒔いて米を望んでいるのだ。願うことができないのではなく、できないことを願っているからだ」

▽金次郎の七代目の子孫、中桐万里子さんは「何か特定の目的をもち、それを得ようと欲して行為をすると、どうしても謀計や細工が入るため、ことはうまくゆかない」と読み解く(『二宮金次郎の幸福論』)

▽「目的」しか眼中になくなると、人の気持ちも現実も見えなくなり、道を外れた小手先に走るだろう。一時的に成功しても、いつか綻びがくる。「いまなすべきことを一途にがんばるなら、『自然と結果が出る』というのが彼の見解でした」(同)

▽金次郎は亡くなる前に「余が書簡を見よ、余が日記を見よ、戦々兢々として深淵に臨むが如く、薄氷を踏むが如し」と語った。生涯に六百もの村を再建した二宮金次郎には祈りはあっても野望はなかった。明日の結果は見えないが、悪戦苦闘しながら村人と共に良心に忠実に生ききった。そして、東アジアの同志と共に――。

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