第26号(2015年11月20日)

新井奥邃は「開新」という言葉をよく使った。思うに奥邃の開新には個体生命の己心の開新と人類社会の開新の二つの意味がある。それは「公共する哲学」の対話・共働・開新の「開新」にも通じるが、究極の目指しは「人類社会の開新」である。自分一人の開新はありえないからだ。これを公快共楽の栄郷ともいう。

開新への心構えを「立志」という。志は「士の心」すなわち「戦い」の心の異名である。なぜ戦いなのか?

現在の人類社会に正義が実現しているとは到底思えない。過欲と暴力が跋扈し、仮初めの現状を維持するために戦争も、将来世代への核のゴミの押しつけも黙認するニヒリズムが蔓延している。現世の闇と戦う人間の決意と行動なくして開新はないからだ。

奥邃が多用した「神戦」とは闇との戦いである。但し、それは武器による戦いではない。覚悟の戦いである。奥邃は当時の仏教界を厳しく批判したが、釈迦を批判していたわけではない。「悲華経」に「十法界の衆生無始よのこのかた造作する所の極重五無間等の諸罪合して我が一人の罪と為す」とある。キリストの「贖罪」と響き合っている。

日韓の関係は今は闇かもしれない。しかし、我々に神戦の覚悟の行動があれば、東アジアに開新の夜明けが必ず来る。

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